綾瀬はるかが本を抱えて喫茶店のドアを開ける。右手に長いカウンター、壁には色とりどりのカップを並べた棚がある。左手にはテーブル席。正面には大きな柱時計、その前にはお花を生けた大きな花瓶、奥深い店内はそこからL字型に曲がっている‥‥。
えええー、見慣れた光景、ここって福岡ハカセがよく立ち寄る、渋谷は宮益坂路地裏の老舗茶房「H」ではないか!(お店にご迷惑がかかってはいけないのでイニシャル表示にしました)。これはユニクロのコマーシャルのいちシーン。何気なくテレビを見ていたら流れてきたのでびっくり。
出演者はみなメリノウールの服を着ている。サザン・オールスターズの曲「愛はスローにちょっとずつ」に乗って、楕円のテーブル席についた綾瀬はるかは本を開くが、ふと向こうの席に座っている鮮やかな紫色のセーターを着た女性に気づく。彼女も本を開いていて、その本はなんと綾瀬の本と同じ、村上春樹の『海辺のカフカ』なのだった(それもハードカバー本)。二人は、はにかみながら会釈を交わす。この紫セーターの女性、何という名前の俳優だったかなあ。つらつら記憶を辿っていくと、あっ、この人、オリンピックメダリストの卓球選手、石川佳純ではないか。確かこの春、現役引退宣言をしたのだった。選手時代の求道的で一途なイメージから一転、華やかな女優オーラに包まれている。
カウンターには母とその娘(と思しき二人)が座っていて、その子が熱心に読んでいる分厚い本は、これまた春樹の最新作、黒地に白文字、金の箔押しカバーの『街とその不確かな壁』。この店に集う人たちは、揃いも揃って春樹ファンなのだった。
よく見るとカウンターの内側でコーヒーを淹れているのは、ハカセもよく知っているこの店の寡黙でダンディなバリスタ。
これはぜひ現地に行って取材しないとならない。秋学期が開講した日、大学の帰り道に訪問してみた。
「見ましたよ、ユニクロのCM」
「ああ、先生もテレビ見るんですね」
「あれ、いつ撮影したんですか」
「この夏、一日貸し切りにして収録しました」
「コーヒーを淹れるシーン、あれは実演されたもの?」
「そうです。ほんの僅かなシーンなのに何度も撮り直ししました」
「ところで、今日は何かおすすめのコーヒーありますか」
「ガラパゴス産の豆が入荷していますよ。サンタ・クルス島です」
「ガラパゴス! ぜひそれを淹れてください」
この店が楽しいのは、カウンターに座ると、バリスタが豆を選別し、挽き、粉をフィルターに盛って、熱々のお湯を注ぐのが目の前で見られること。香ばしい香りが立ち込める。それを客に合わせて、背後の棚からウェッジウッドやロイヤルドルトンなどの高級カップに注いでくれる。福岡ハカセはいつもデミタスカップに入れてもらって、残りは陶製のカラフェに。一杯目はストレートで、二杯目はミルクを入れて、三杯目はそこにお砂糖を少々。バリスタの隣では、卵を割り、黄身と白身に分け、泡立て、粉をふるい‥‥と、この店の名物のシフォンケーキが手際よく作られていく。コーヒーをゆったり味わいながら、この作業を眺めるのも一興。
あ、ちょっとgoof (グーフ)、言ってもいいですか(goof とは映画ファン用語でオタク的コメントのこと。例えば、連続しているシーンなのに俳優の髪型がちょっと違っているトカ)。
石川佳純が読んでいる『海辺のカフカ』、開いているのは序盤のページなのに、別の角度からのショットではページ数が一気に進んでいる(ように見えます)。なにはともあれ、この喫茶店は読書がとてもよく似合う。
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これは、私が『週刊文春』に連載しているコラム「福岡ハカセのパンタレイ・パングロス」の10月12日号に書いた一文(今回再録にあたって一部、加筆修正しています)。
最初、この原稿を仕上げて編集部に送ったところ、最後の部分に"物言い"がついた。
<オチ部分のグーフ、編集部内で検討してみたのですが、やはり避けておいたほうが無難かなと思います。確かに、そういうふうにも見えますが、単に撮影角度の違いによる見え方の差かもしれません。万一、グーフが間違いであっても、ユニクロから抗議がくることはないでしょうが、CM関係者に「文春の福岡ハカセのコラムにこんなこと書かれた。こっちはページ数までちゃんとこだわって作ってるんだけどなぁ」みたいなことを、皮肉交じりにSNSで投稿される可能性はあると思うので‥‥>
なるほど。それはそうかも。こういうふうに文章の精度を保って著者を守ってくれるのが、活字媒体というもの。編集部の意見を容れて一度は書き直そうとした。しかし。もういちど、CM動画を見直して考えが変わった。いや、やはり読んでいるページは違う‥‥福岡ハカセのオタク心に火がついた。これはもっとミクロに検証してみる価値がある。
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CM動画を一時停止したり、動かしたりして「研究」を開始した。
画像1は、CM中で、石川佳純が本を読んでいるシーンを一時停止してみたもの。さすがに文字自体は読み取れないが、行の長短や、文字の濃淡(漢字かカナか)などは判別できる。
書斎に行って、本棚の中から『海辺のカフカ』を探す。確かこのあたりにあったはず。青表紙なので、上巻。ああ、あったあった。手にとってページをめくっていく。画像1に合致するページがどこかにあるはず‥‥。
画像1:CM序盤 石川佳純が開いているページ
画像2:『海辺のカフカ』〈上〉 p97
画像2の写真をご覧ください。これは、『海辺のカフカ』単行本上巻、97ページ。行の長短、文字の濃淡パターンが、ぴたりと画像1と一致するのではないか。
画像3 は、97ページを開いた『海辺のカフカ』を、ツカ(本の厚さ)がわかるように天方向から撮影したもの。
画像3:『海辺のカフカ』p97を上側から撮影
『海辺のカフカ』単行本上巻は、全部で397ページ。97ページまで開いた厚みはこの程度である。CMで、石川佳純が読んでいる姿を右手から撮影したシーンのページの厚みもこんな感じかと。
画像4は、CM中の後のシーンで、石川佳純が本を開いて綾瀬はるかと会釈を交わしている場面である。
画像4:CM中盤のシーン
どう見ても本の半分くらい(200ページ程度)は進んでいるように見えませんか。
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というわけで、もしユニクロ or CM制作チームが何か言ってきても、一応の解析とデータに基づいて書いています、と反論できると思うのですが、どうでしょうか、と福岡ハカセは『週刊文春』編集部に再提案した。編集部もハカセの熱意(?)を意気に感じてくれて、原稿は原案どおり掲載された。今のところ、どこからも批判は届いていない。
まるで、かつて、アイドルの瞳に映った街の風景から、アイドルの住所を突き止めたオタクみたいだなあ、という感慨がふと脳裏をよぎった。オタクはそもそも調査魔だから。
それにしても、茶亭Hに集った人々が揃いも揃って村上春樹を読んでいるなんて(それもハードカバーの単行本を読んでいるなんて)なかなかシュールな光景である。最新刊『街とその不確かな壁』も、少女が読むにはハードルが高い。これも実はちょっとフカヨミすることが可能である。ユニクロの柳井正と村上春樹は早稲田大学の同学年同窓生。ただし、柳井さんは政経学部、春樹さんは文学部。2021年、早稲田大学に作られた国際文学館、通称、村上春樹ライブラリーは、開館の趣旨に賛同した柳井さんがリノベーション費用全額の12億円をポンと寄付した。つまり柳井さんは春樹ファンということ。このCMはそれを"忖度"している、と見ることができるというわけ。
ちなみに、CMの最後のシーン(画像5)では、開いているページがまた最初の方に戻っているように見える。
画像5:CM最後のシーン
石川佳純は超ハルキファンで、どのページからでも読めちゃうという設定なのかも。福岡ハカセも超ハルキオタクゆえに、ここまで『海辺のカフカ』に反応してしまいました。