君はいのち動的平衡館を見たか vol.8|「いのち」が輝く起点
- shin-ichi_fukuoka
- 5月22日
- 読了時間: 4分

現在の私たちは、EXPO'70が約束したはずの「人類の進歩と調和」の中にはいない。阪神・淡路大震災と東日本大震災を経験し、未曾有の原発事故に見舞われた。毎年のように台風被害や土砂災害、洪水を経験し、来たるべき南海トラフ大地震におびえている。一方で、東京圏を中心に、タワーマンションが林立する。このアンバランスはなんだろうか。繰り返す災害に苛まれ、経済は停滞し、少子高齢化が進み、世界は分断され続けている。その上、突然の新型コロナウイルスのパンデミックに見舞われ、ウクライナと中東では新たな戦争まで始まってしまった。このような状況の中で、岡本太郎の叫びをもう一度受け止めて、「いのちを知る」とは、一体どのようなことを考えればよいのだろうか。いのちは輝くものである。特に、私たち人間にとって個体の生命は唯一無二の価値があり、しばしばそれは、地球よりも重い、と表現される。殺人は最大限の重罪となる。しかし、ひるがえって今、世界を眺めわたしてみると、生命の尊重は必ずしも自明の原理とは言えない様相にある。だからなおさら、いのちは輝くものであることの意味を考えなければならない。
人間以外の生物にとっては、個体のいのちよりも、種の保存の方が優先される。魚も鳥も昆虫も、植物でも微生物でも、次の世代を生み出すこと、つまり種の保存が、生物にとっての至上命令になる。この目的のもとでは、個体のツールでしかない。端的に言えば、個々の生物は、生殖のための道具となる。何千個、何万個もの卵が産み落とされるが、そこから生まれた幼生や幼虫の大半は、他の生物に食われたり、海の藻屑となったりして消えてしまう。ほんのわずかな個体がなんとか生き延びて、パートナーを見つけ、次世代を作ることに成功する。こんな奇跡的なことを繰り返して、生命はなんとか種を保存してきた。ところが、私たち人間は違う。一人ひとりの人間、つまり自己の生命に最大限の価値を置く。同時に他者の生命も最大限に尊重する。人間以外の生物であれば、種の保存に寄与しない個体、生産性のない個体に意味はないことになってしまうが、人間は決してそうは考えない。人間は、種(つまりホモ・サピエンス)の保存よりも、まず第一に、個の生命を尊重する。そのことに価値を見出した初めての生物なのだ。個体は必ずしも、種の保存のために貢献しなくてもよい。生んだり・増やしたりしなくても罪も罰もない。それは個の自由なのだ。そう認識しあうことができた初めての生物、それが人間であり、基本的人権の起源もここにある。LGBTQも、障がい者も、個の生命は等しく尊重される。私たちが自在に将来を選ぶことができるのも、この認識のおかげである。結婚してもいいし、しなくてもいい。子どもを持っても、持たなくてもいい。どんな職業について、どんなふうに生きてもいい。
なぜ、人間だけが、このような認識に到達することができたのか。それは進化の過程で、人間だけが、すばらしいものを発明することができたからだ。言葉である。言葉は、第一にはコミュニケーションの道具である。しかし、それ以上に、人間を、自然の掟から自由にする道具でもあった。言葉は、物事に名前をつけ、概念化する力がある。世界を構造化する強力な作用を持つ。言葉のおかげで、人間は、種の保存という、遺伝子の命令の存在を知った。同時に、その命令を相対化することに成功し、そこから個の生命の自由を勝ち取ることができた。これが「いのち」が輝くことの起点となる。
ゆえに私たちは言葉による認識を大切にしなければならない。一方で、大事なことは、言葉を過信してはいけないということがある。言葉は、私たちを自由にしてくれると同時に、人間存在を縛るものでもある。そして、あらゆる自然をすべて言葉の力で制御することはできない。私たち人間は、地球生態系の一員であると同時に、言葉を持った特殊な生物なのだ。この相克をどう解決して生きるべきなのか。大阪・関西万博で問われている課題も、ここにあると肝に銘じて計画を進めなければならない。そう考えた。
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